谷邸跡を後にして牛込若松の山川邸跡に向かいます。
その距離感はこれくらい。
左上にピン2本立っている場所です。
当時の住所でいうと「牛込區若松町百十三番地」
現在の住居表示だと「新宿区若松町33-8」アール・ビル新宿が建ってます。
山川さんがいつここに邸を構えたのかわからないのですが、明治11年1月14日発翰の谷干城宛書簡の封書に書かれていた住所はまだ金杉村でした。
その後の官員録などでも山川浩の住所が長らく空欄だし、名古屋や大阪へ赴任しているので、本当にいつ購入したのかとか全然わからないですね。知りたいですね。
とりあえず、私が今確認できる最古は明治13年10月3日の台風被害の記録に残った住所かな。
この時は物置1棟が被害にあってるみたいですよ(『東京市史稿』変災編/東京市編 大正5)
あと、このときは住所が「牛込若松町百十二番地」になってますね。
明治の地図で行動すると言うと、よく「ブラタモリみたいだね!」と言われます。
ブラタモリが始まったとき「タモさん同類!!」って思いました。
東京は意外と道が変わっていなかったりするんですよ!
ほら、若松町のあたりの交差点から下に伸びてクイッと曲がる道なんてそのまんま!
途中、防衛省の加賀門前とか通っちゃいます!
この道の直線も明治期から現在まで変わってないですね。
昭和陸軍とかやる人はここは陸軍省なのかしら。母は「三島由紀夫が死んだとこね!」って言ってて、そういや市ヶ谷と言えば私も長らくそんなイメージだったわ……と思い出したり。
長らく明治に浸かっているので、今のワタシ的には「陸軍士官学校跡地」ですかね。
推しが歩いたかもしれないこの道の脇にあったのは陸軍士官学校だから。
そこから女子医大通りに針路を取って若松河田の駅方面に向かいます。
このルートを取ったのは、アイキャッチ画像で山川邸跡に置いたピンの下にあるもう1つのピン、ここが松平邸跡だから。
松平容保公の屋敷が明治7年頃から明治16年まであった場所。
ネットに富久町って情報もあるけど(『紙碑・東京の中の会津』で明治13年に東照宮宮司に就任の際の自筆履歴に「市ヶ谷富久町百十八番地居住」とあるらしい) 容保公の情報までは追えてないので東京時層地図の位置を優先して巡ってます。
(先の東京市史稿で茶製場1棟が被害にあった容大公の住所が富久町118番地ですね)
写真は別の日に撮り直したものだけど、防衛省の方へ振り返って撮ったものと、
若松河田への進行方向に向いて撮ったもの。
道がクイッと右手に折れる部分で左手にはそれこそ富久町へ向かう下り坂(そう、坂なんですよ!)が伸びている。この道が折れる感じも実は明治期とそんなに変わってないんですヨ!
というわけで、アイキャッチ画像にしたものの元画像。縦が少し長いです。
松平邸とのこの距離感!
個人的に山川さんが根岸の金杉村から牛込若松に引っ越してきたのは、容保公の近くってのが大きかったんじゃないかなとも思ったり。あと「若松町」という地名。
容保公の近くで若松……山川さんの心にはいつも会津が!と思ってしまうんですねえ🤭
そしてここが山川邸があった旧牛込区若松町113番地。
この道の右手に山川邸があったわけですねえ。
一族写真が撮られたあのお屋敷。大山閣下ご夫妻が気を遣って手前で馬車をおりて訪れたあのお屋敷!今田勝與氏や町野武馬が語る数々のエピソードの舞台であるあのお屋敷、その跡地!
山川さんの経歴的にも一番しっかりと残っている住所だと思います。
……が、晩年は転居を繰り返すのですよね😅
病気に悪いとかそんな理由でしたっけ。『山川浩』あたりに書いてありましたっけかね。
とりあえず私が今すぐ取り出せる情報としては明治27年2月の住所(将校現住所取調の件/アジア歴史資料センター)は「小石川区初音町四番地」(健次郎の家じゃん!)だし、亡くなった時の自邸は「麹町区下六番町」
自分ち嫌いすぎじゃないですか!?
誰かの御本に「発病した家だから」というのがあったけど、なんにせよ徹底している。
これは33番地と34番地の境にある路地。
若松町の交差点から夏目坂通りを見てもわかるけど、北に向かって下り坂なんですね。
この路地も北に向かって下り坂。
山川邸は盛り土してたんだろうかと気になるのもさることながら、路地の写真を撮ったのは……。
昭和6年の地籍簿だったかに山川浩所有の土地が残ってて。
私道の共有分なのかなと思ったので。
(地籍簿コピー取ったけど今すぐ出典がパッと出てこない💦発掘でき次第載せます)
で、この若松113番地の土地がその後どうなったかというと。
兵庫県尼崎で三菱系の岩崎俊弥が創業した旭硝子が大正7年に東京へ本社を移すにあたり、試験場用地として手に入れるのです。
その時の名義人は山川戈登だったのかな?戈登くんはもう亡くなっているけど。
旭硝子は山川健次郎と交渉して手に入れたようです。
詳しくはコチラ→『岩崎俊弥』故岩崎俊弥氏伝記編纂会,昭和7
谷干城邸跡でも思ったけど、この場所から山川さんは日々陸軍省だったり師範学校だったりに通ったわけですよ!
130年くらい前、ここで生活してたんですよおおお!
タイムマシンがあったらなあ。
そう思いながらまた次の場所へ向かいます。
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