(月ヶ瀬と谷干城が結びついた経緯、騎鶴楼を訪れた経緯はひとつ前の記事へ)
谷干城は結構快く揮毫をするタイプなのでしょう。
日記にもその旨がよく記載されています。
『香世界懐古』の谷干城のページには一幅の写真、他の一幅(どちらも騎鶴楼蔵)はテキストで紹介されていて、他のお宅に条幅、観光会館に和歌(画帳)が残されているらしい。
この日の騎鶴楼さんにも一幅飾られていました。
『香世界懐古』にテキストで載っていた方です。
水色山容共絶倫 暖風吹破満株春
不愁此地赤貧苦 満目山家都是銀
我、漢詩の素養がなさすぎるのが残念😢
(ご当主さんが読み下してくださったのメモすれば良かった!)
定番のフレーズなんだろうけど、昔お仕えしていた殿の名前が入っているようなところに思わずほっこり😊
前掲書にはそこまで書かれてなかったけど、署名の上に「明治二十二年四月遊月瀬村戯賦悪詩似騎鶴楼主人」って書かれてるから明治22年4月に来たんだねえ……と、便利な世の中です、その場で国会図書館デジタルコレクションを開き「月瀬/月ヶ瀬」のキーワードを「谷干城遺稿」の中から探します。引っかかったのは――
玖満子さんへ宛てた書簡(22年4月11日付) (国会図書館デジタルコレクションへリンク)
この手紙によると……
4月7日
京都を出て汽車で草津まで。草津から関西鉄道で柘植まで。
柘植から人力車で伊賀上野まで。そこで一泊。
4月8日
二人引きの人力車で伊賀上野出発。午前11時に月ヶ瀬到着。
天気のよい暖かい日で絶景に大満足。川に舟を浮かべ観梅。
食事には些かの不満が見られる。宿については事前に聞いていた話が酷かったので覚悟はしていたものの、話と違って良い布団で良かったね。
4月9日
朝8時月ヶ瀬出発。笠置山に向かう四里ほどの道を徒歩で。
なかなか楽しまれている感じ😊
(後半、板垣への思いが噴出しまくってるのもおかしい)
が、しかし。
22年4月の日記を見ると東京にいる感じになっているのが謎。
もしかして谷さん月ヶ瀬で年とか月を勘違いしてる?ってな可能性も考えて、他の年の4月や3月も見てみたけど該当しない感じ。
手紙の中にある「柘植駅」もWikipediaで見ると明治23年2月開業になっている。
ただし関西鉄道自体は明治21年開業で草津~三雲は明治22年12月開業。
ん?どっちにしても関西鉄道を使ってるなら22年4月には鉄道使って行けなくない?
宿の方がなぜか明治26年って書かれたやつがあったから、26年も見てみたけどその期間は日記が欠けている。24年も同じ時期に京都へ行っているけど、該当日も京都にいる。
なんだろう……谷干城が月ヶ瀬に行ったことは間違いないのに、いろいろと記録も残っているのに、何かしっくり来ない。
あとは、玖満子さんへの手紙によると板垣がその頃高知にいるようなので、それと照らし合わせるか、その時期の京都日出新聞とかにそれらしい記事が載ってないか……。
調べなきゃ!
ああ、楽しい(笑)
そういえば、奈良県立図書情報館のホームページ内(?)の今昔写真WEBの月ヶ瀬のページに騎鶴楼さんの写真が3葉ありました。
・奈良の今昔写真WEB(トップページ)
・ 〃 月ヶ瀬(直リンク)
【2023年3月13日追記】
↑これ、六ですな(笑)
『香世界懐古』にも二十二年来訪ってなってたし、『谷干城遺稿』に収めされた玖満子夫人宛の書簡が「二十二年四月」のものとされていたからすっかりそう思い込んでしまった!
騎鶴楼さんのメモ(?)にも26年ってのがあったから、それが正解なんだわきっと。
スッキリ、スッキリ!
玖満子さんあて書簡に鉄道のことが書いてなければ、22年で落ち着いてしまうとこだった。
『谷干城遺稿』をまとめた人も谷さんの六を「二」と読んでしまったのだろうなあ。
コメント