暑いし疲れてるしでこの後の予定を全部やめようかと思いつつ、どうせ帰り道の方向だし…と、とりあえず次の目的地へ。
小石川後楽園。
今回の旅で毎日東京ドームシティの横を通ってるんだけど、昭和のお子さまだったのでこの界隈は後楽園球場と後楽園ゆうえんちだったわけですよ。後楽園といえば野球場だったので、元はお殿様の庭園と知ったのはせいぜい中学生くらいの頃だったんじゃないかしら。
そんな後楽園に来ようと思ったのは、やはり山川浩スポットだからです!
さくら山集に後楽園に来たときのことを詠んだ歌があります。
容保公に陪して後楽園に遊ふ
桃の花尋祢し人のあとにまて 浮世の外にわれはきにけり
桃の花~の下りがよくわからないのですが、浮世の外……めっちゃわかる!!
これは外に出てから気づいた案内板だけど、各年代の図面とかが載っててね、明治中期に一番近いかな?って思うのがこれだった。
円月橋とか木曽山、立田川、駐歩泉碑とかはその頃からある感じね。
円月橋、水面に映った影で円に見えるって難易度高くない?
そんな説明受けただろう容保公ご一行は円に見えたんだろうか。
ビルが見えるから「都会の中のオアシス」的に思っちゃうんだけど、山川さんが来た頃にはこんなに高い建物はなかっただろうから、やっぱり「浮世の外」って感じがしたんだろうなあ。
私が面白いなあと思ったのは「木曽山」と称されたエリア。
先にあげた大正9年の園内図で右下の方に書かれているあたり。
池の周りをぐるーっとまわったあとに、少し山っぽい中に入っていって(登って)、そしたらこんな景色。ほんと浮世の外!
地図に「椶梠山」とも書かれているようにシュロの木が多くて「木曽路とは?」と思ったりもしたけれど、なんにせよ都会のど真ん中の風景ではないね。殿様スゲー!
木曽山を下りると立田川なんてエリアもあって、その先には「駐歩泉」の碑があって、これは写真の案内板にあるように水戸烈公の筆によるもの。
容保公は水戸の血筋だし、でも同じ水戸の血筋の方に振り回された感もあるし、この碑をどういう想いで見たのだろうなあと思ったりします。そしてその殿を山川さんはどういう想いで眺めたのだろうなあとも。
山川さんが来たときの詳細がわからないため、ざっくりまわってとっとと移動する予定が、やっぱり木陰のベンチで横になって、新緑の葉と青い空を眺めていたりしたのでした。
おかげで滞在時間が結構長い。
山川さんではないけど、浮世を忘れてボーッとするのに良いところですね😊
ほんと東京の真ん中あたりは意外と緑が多い。緑と坂!
あとこの辺よくわからないのだけど、明治期は東京砲兵工廠があって、後楽園にはその当時の遺構なんかもあったけど、どれくらい庭園が庭園として残ってたんだろう😓
容保公と優雅に庭園巡りができるような環境だったんだろうか。
そして山川さんが容保公と優雅に庭園めぐりをしたのはいつのことだったんだろう。
休んでいたらやっぱり次に行くのがためらわれたけど、なんとか自転車に跨がって次の地点へと急ぐのでありました。
<続く>
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