帝都推しポタ1日目⑤谷中~上野

おでかけ

本当は飛鳥山まで行く予定だったけど、かなり陽も落ちていたし、なによりお尻も膝も痛すぎてこれ以上進めない!と思ったので今日は根岸で終了。
といっても帰り道にも寄れるとこが……。

江戸の絵図にも明治の地図にも、羽二重団子さんのところから谷中に向かった先に芋坂があります。
今は広がった線路などのせいで1/3を残すのみらしいですが、線路で分断された箇所には橋がかかっていて、芋坂の途中にドッキングするという按配。
階段だけどミニベロなら余裕でかつげる!(自転車用のスロープもあるにはある)

階段を登りきると谷中墓地がわかりやすく見える。上野のお山だ!
そしてこの跨線橋を渡りきると芋坂。

案内板のあるところはもう坂ではないね😓
そしてこの写真だけ見るとわけわからん道ばっかり撮って何なんだって感じだよね!

前の記事でも触れた明治9年の地図と、20年頃の地図。
左下に矢印をつけたり丸で囲ったあたりが、現在の谷中霊園乙6号2側あたり。
そう、小出光照のお墓があったところです。
小出のお墓が泉岳寺から谷中にいつ移されたか調べ切れてないのだけど、早い段階でここに移したのだとしたら、根岸の山川さんが散歩がてらにお参りしてないかしら、というのが私の希望的推測。

で、芋坂からの急カーブ、台形みたいな道のあとのまたカーブ、道の形が変わってなくないですか!?
これ、絵図でも変わらなかったような気がするんだ。幻かもだけど。
なので「山川さんが歩いた道とあまり変わらないようなカーブを感じる!」みたいな感じでむちゃくちゃテンションあがって写真撮ってたわけですよ🥰

怖がりの私が、陽も暮れようとする中に墓地へ!
小出さんのお墓は無縁で改葬ってのをネットでよく見るのだけど、10数年前に訪れたときは改葬まもない頃で、管理事務所で「八柱霊園の○○さんのところへ改葬された」と聞いたような。
(そして八柱霊園まで行ったのですよw)
当然その時の乙6号2側6はすべて撤去されたあとで、同行の方々と「容保公篆額の碑だけでも残して欲しかったぁーー!」と絶叫しあったものです。
そう、その時は小出さんのお墓が亡くなったことの方がショックで忘れていたのですが……
山川さんが来たの、ここじゃね?
ならば、いくら更地になろうとも、今回のように他人のおうちのお墓があろうと、山川さんが来たのはきっとここ。
泉岳寺から移したのが明治12年以降だとちょっと怪しくなるけど😓

小出光照を思い出して詠んだ歌とか、弟の喜助も早逝で、その時に父親に贈った歌とか、とにかく「山川さん、小出兄弟好きすぎでは?」と思っています。
どちらも早く亡くなってしまって本当に残念ですけども。

うろうろしている間にも日は暮れていきます。
お墓参りに来た家族連れとかチラホラいらっしゃったけど、あまり人がいないのでとっとと退散せねば!と、移動中にふと顔をあげるとスカイツリーさんがこんな所からもよく見えました。
明治初期の人を偲んできているのに、まだまだ変わりゆく東京を目にしてなんだか不思議な感じがしました。

この日はとにかく暑くて、汗もかいたしどこか銭湯でも……と検索してよさげだったのが神楽坂の銭湯だったので、ルート検索で向かったものの、根津の交差点で登り返しを見てしまった私は「上野の方から回れば平坦じゃね?」と、左に折れて上野方面へ。

せっかくなので上野公園に入ってみました。
刻一刻と暮れていく中、ビルの明かりがきれいに見えて、なんとも不思議な光景だなあと。
そして思い出したのです。上野公園にも山川さんスポットがあったことに!

上野精養軒!!
校長時代に何かの会(こういうとこよ!調べておこうよ私!)をこちらでやっていたなあ、と。
その頃の精養軒はデジコレで写真見れたはずなので、その辺はサイト本体でまとめたいと思います😓
そして公園を去り際に見えた景色がアイキャッチの「不忍池と弁天堂」
空のグラデと陰になった木やビルと、ライトアップされた弁天堂がなんともフォトジェニック!
寄り道して大正解だったの巻😆

そしてこの日はまだまだ終わらず続くのである。

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