興津で山川浩

おでかけ

「静岡にも山川スポットあったはずだから寄らねば!」と思っていたものの、出発の前夜に『さくら山集』開いてそこが興津だと確認するギリギリっぷり!

 興津の海水楼にて
吹荒れしいそ山風は音絶て ひとりくたくるきしのしら浪

『さくら山集』山川浩

歌の内容はさておき(”ひとりくたくる”がわかりません!)、旅館名が記されているのがポイント高いですね!
というわけで、『海水楼』がどこにあったかを知らねばなりません。

デジコレなどで軽くググったところ、明治23年頃から観光案内的な本が増えてる感じ。
それというのも明治22年2月に鉄道が静岡まで延びて、同時に興津駅が開業。
(写真は現代の興津駅)

ここで一気に東京からの観光客が増えたのかな。
井上馨だの西園寺公望が別荘を建てたので、それに伴って政府の高官などもやってくる……という流れもあったそう。
そんな感じで山川さんもやってきたのでしょう。
海水浴は一種の健康法でもあった時代ですし。
そしてその時期の興津で必ず名前があがる旅館が「海水楼・一碧楼・身延楼」

その中でも一碧楼さんは昭和60年まで旅館業を続けられていたうえ、今はその跡地に「一碧楼水口屋ギャラリー」として旅館だった時代のあれこれや明治高官の書などが展示されているらしい。
というわけで、一碧楼さんの場所は確定。

そしておなじみ国会図書館デジタルコレクションで明治29年発行の『興津案内』を見たところ、”海水楼龜次郎 停車塲ヨリ西へ六丁”となっている。一碧楼さんが”西へ四丁半”となっているので、一碧楼さんから西へ一丁半(約163m)となると……図書館のあたりかしら?とあたりをつける。
その辺は図書館で訊けばいっかー、と開館時間を待ってみた。
駐車場がよくわからなくて開館時間に電話したもののお休みのアナウンス。
まさか!?とサイトの開館カレンダーみたら思いっきり休館日!
調べておこうよ、先にさ!!
悲しみにくれながら、とりあえず明治を吸おうと一碧楼水口屋ギャラリーの開館を待つことにしました。

絶望に陥りつつも、富士山が見えて「山川さんもこの地でこんな富士山見たんだわ!」って気を取り直してみたり。
当時今私が立ってるこの場所はたぶん海。
写真では中央から左に繋がる民家の線、そこが昔の海岸線だと思うの。

そして一碧楼水口屋ギャラリーさんへ移動。
駐車場で開館を待ちました。

少し位置はズレるけど、目の前に東海道、背後に山……というか丘。
こういう位置関係はやはり現地で体感するに限るわけですよ!

江戸時代と明治~昭和の近現代、どっちにも優しい。
ところで一碧楼って名前は後藤象二郎がつけたらしいよ!
空と海の青さが一体となる場所だって。さすが後藤。風流!

そして中には私の知りたかった情報が!(撮影許可いただいてます)
海水楼の位置ーーーーーー!
てか川崎正蔵が別荘にしてるーーー!
川崎正蔵というだけで妙な親近感がわきますな!(父が川崎重工に勤めていました)
それにしても井上馨の別荘デカすぎでは(笑)
さすが井上と言わざるをえない。

その後も坐漁荘で展示みたり地図みたりで確定した海水楼の跡地がこちら↓です。

左手、マックスバリュ清水興津店(の敷地)😆
奥に見えてるバイパスと平行に走る道、そこが当時の海岸線。
てか、図書館の開館待ちで時間潰してた駐車場がここでしたわ😓

というわけで、敷地から海の方面に向かってパシャリ。
景観はこんなに変わっても、かつてこの地でおいしいご飯食べてよい景色を見て、海水浴とかしたかもしれないと思うと頬もほころぶというものです🤭
あとは……どの時期に来たかわかるといいんですけどね。
明治22年~30年のどこかだと思うんですが……。

(そして山川さん関係ない興津観光は別ページで!)

【追記】
私の推し旅の基本は「山川さんが訪れた時期に近い地図と写真をゲットし、その時の雰囲気を味わう」だったりするのですが、今回は図書館が休館日だったので自宅で見られる情報で補足。

まず今回行ったあたりを国土地理院地図で(地理院地図Vecterを加工)
中央部「+」のあたりが海水楼跡。右側に本のマークがあるのが図書館。その少し右上あたりに一碧楼水口屋ギャラリーがある感じです。
+の上、東西に細く引かれた赤い線が国道1号線。旧東海道です。

そしてこれはスタンフォード大学が公開している日本の古地図。1/50,000地形図。
この地図のタイトルは「吉原」で「明治二十年測図大正四年二回修正測図昭和五年部分修正縮図」と記されています。
上の地理院地図の線路を基準に縮尺を近づけました。
海岸線が大きく変わっているのがわかると思います。

実は明治中期の海水楼の案内(『東海道鉄道筋諸国旅案内』滝本兎久太郎 編/明23)には「御座岩の前岸」とあって、地図中央の丸いポツポツはそういう岩なんだろうなあ、と。
(この辺は別記事で触れる坐漁荘などでも古い写真が見れたんだけど……)
なので一番大きい岩の前にいかにもお庭が広そうな区画、これが海水楼なのかな、と。
清見寺の少し東から海に延びる道、これも昔と変わってなさそうで(マックスバリュを左に撮った写真の道)、建物こそ違えど興津宿から近代の井上・西園寺の別荘を中心に栄えた興津の空気は充分に感じられる。良き良き。

で、その海水楼、明治40年には川崎正蔵が別荘として買い取った話は前に書いたけど、明治33年9月に高山樗牛が友人に宛てた手紙(『清見潟に於ける樗牛 : 附・樗牛会第二報告』姉崎正治 編/明38)ではもう無くなっている。
有名旅館っぽいけど意外と早い廃業だった。


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