黒谷文書

歴史

「日本史スクープ砲」なる番組の2/12放送分が「会津藩主 松平容保から見た新選組」とやらで、私はその番組は見てないのだけど、見た方が番組中で紹介されてた「日鑑」が気になってらしたので京都まで行ってきました😓

「へ~、そんなのあるんだ~。私も見た~い!」
からの、それが『寥誉上人御代日鑑』であること、黒谷文書が京都市歴史資料館にあること、をネットで調べ(本当に便利な世の中です)、その京都市歴史資料館が2/28~3/5は臨時休館であることで今週末を逃すとしばらくいけないけど今週末は車を車検に出すうえに息子が来るのだ!うううう!となっていたところ、朝出した車が夕方には引き取れるとなって、慌てて引き取りに行って息子を川西に送りついで京都へ向かうことにしたのでした(長い!)

久々の車中泊。
年末にゲットしたNEWグッズ、エヴリイ専用のカーシェード。
お金ないのでリアだけ。
今までダイソーのカラーボード(廃盤)で作った自作目隠しだったけど、やっぱりお金出すとちゃんとしたものが手に入るしサイズ感ピッタリよなあ、とか。
慌てて出たから布団とマットだけだったけど、比較的暖かい日で良かった。寒くなかった!

朝ごはんをすき家ですませ、ほぼ開館直後から……5時間近くいたかな。
『寥誉上人御代日鑑』の文久2年から慶応3年12月まで。11冊分?
慶応4年1月~6月の1冊分が行方不明になってましたよ!
見たらちゃんと所定の位置に戻しましょうよ!

んで、日鑑。
結構ボリュームがあるので目次だけコピー。気になる記事だけ本文もコピー。
推しは当時下っ端だから名前のカケラもなく。
てか、宿坊に割り当てられた藩士たちの宿割的なものは存在しないのでしょうか😢
私は今「京都での山川さん」の解像度を上げようとしています。
樋口真彦さんの小伝にあった「会津の七人組」とその周辺がもっと知りたい。
その為にも山川さんが「いつ」京都にいたのか知りたいし、なんなら誰と同室なのか知りたい。
(既に1000石取りだけど、さすがにまだ1人では住まわせてもらえないんじゃないだろうかと思っているのだけど……従者とかいるからやっぱり一部屋もらってるんだろうか)
いやあ、だって、その頃から水島純と仲いいとか思ってなかったんで😓
過激攘夷派を鎮めるために京都に来てるのに、尊皇攘夷!ってなってる若者たち、可愛くないですか?
私は常日頃、さくら山集の中でなぜ山川さんが鴨川を見るたびに昔の仲間を思い出しておセンチになってるのか謎だったんだけど、彼なりの「青春」だったんだなあと思う今日この頃なのです。
一心寺に葬った木本さんとかもお仲間だったのかー、って思うと、お墓を見る目もお墓で詠んだ歌を見る目も変わるというものです。

が、その辺は盛大なる空振り。
とはいえチラホラと梶原さんの名前が出てきてウヒャウヒャしてたり、やたらと名前が登場する奥女中の方が気になったりしつつ、一番ビックリしたのは御家老・横山主税の訃報。

かねてより幼名、もしくは一般的に知られている名前の一つ前の名前が知りたい人が2人ばかりおりまして。
1人は神保修理。
そしてもう1人が横山主税、常守の方。
主税の方は家督相続の記録とかあれば……とか思ってたけど会津の史料じゃ見かけないし、でも御家老が存命中は主税のはずがないし……と気になっておりました。
それが黒谷文書で拾えちゃった!

横山又作。
その横に常守(花押)とあるので、常守さんに間違いないでしょう。
又作かー😭
いえね、私もその昔の山川さん扱ってる同人誌とか読んでたりするので、やっぱり「主税ちゃん」ってイメージじゃないですか。
幼名も、広澤安宅さんの御本で見かけて「マジすか?」って思ったやつが、詳しい方に聞いたらそれみたいなので「マジすか……」ってなったけど、又作かー……という感じ。

こうして日を置いて書いていても又作ショックが大きくて自分でも意外。
日鑑はざっと見たところ贈答記録などが多くて、会津から頻繁に蝋燭を贈っているのを見ては「さっすが会津!」って思ったりしました。
夏場には素麺なども贈っていました。Theお中元!

他にも参考になりそうな本見てたら「本陣や藩邸以外に住んでた藩士は届け出なきゃいけない」みたいなのがあって、『京都詰家来名前』なる史料名が引っかかったりしたものの、京都市歴史資料館にはなく、検索したら国立公文書館のデジタルアーカイブで文久3~元治元年のやつは見れたけど、あれは極々一部なんじゃないだろうか……ってくらい少なかったのでガックシでした。
どっちにしろ黒谷だろうしねえ。

いやあ、それにしても又作ですよ(まだ言う)

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